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お父さん

ふと、思い立ったので書いてみる。

うちのお父さんはオレが高校2年生の冬に亡くなった。

病名はすい臓がんだった。

年末くらいから背中が痛いと言っていてよくマッサージしたり背中に乗ったりしていた。

年が明けてさらに悪化した様子で、頑固なお父さんもさすがに病院に行くことに。

おそらく行かないと言い張るお父さんをお母さんは必死に説得したんだと思う。

とにかくお父さんの言うことは絶対!発言もままならないようなスパルタなお父さんだったから、

流石のお父さんもちょっとやべーなと思ったんだろう、でそのまま入院した。

高校生だったオレは検査入院だと聞かされ1・2ヶ月すれば退院出来ると聞かされていた。

だから普通に学校に行き、普通に部活をし、たまにお見舞いに行く、

当時はお見舞いに行くのもめんどくさいと思っていた、

いつも元気なお父さんだったから早く退院しろよくらい思っていたかもしれない、

だが、実は入院した段階で末期のすい臓がんだとお母さんに告知されたらしい。

兄は当時大学生だったのでお母さんからそのことを聞かされていた、

何も知らずに毎日を過ごしていたのはオレだけだった、

そんな日が2ヶ月ほど続き、学校で部活をしていた時に放送で職員室に来るように呼ばれた、

母親からの電話だった、

「とにかく病院にすぐ来るように」

それだけだった、

なんで部活してるのにお見舞いに行かなきゃいけないんだって思った、

多少イライラしながら病院に向かった、

そこにはお母さんと兄がいた、

そして、数日前とは明らかに様子が激変しているお父さんがそこにいた。

寝たきりで、自分で排泄もできない、ふくらはぎはむくみすぎてパンパンにはれあがってる、

オレは訳が分からなかったが、今日は病院に泊まるからということでそのまま一夜を過ごした。

気づいたら朝だった、いつの間にか眠っていたのだろう、

お母さんが学校に行ってきなさいというので行くことにした、

病室から出るときかろうじで支えられながら起き上ったお父さんと握手をし学校に行くことに、

それがお父さんとの最後の会話だった、

一旦家に帰りシャワーを浴びて着替え学校へ、

部活の朝練には間に合わなかったがそのまま朝礼が始まろうとしたその時、

また職員室に呼ばれた、

「お父さんが危ないから急いでこい」

兄からだった、

もう訳が分からなかった、

病院に来いって言ったり、学校行けって言ったり、また病院に来いって言ったり、

検査入院てなんなんだよ!!

病院に着き、病室に入るとそれはもうドラマでしか見たことのない世界、

動かないお父さん、泣きながらありがとうと伝えるお母さん、頑張れと体をさする兄、心臓マッサージをする医者、電子音が弱まっていく心電図、

全てが異空間だった、

は!?

なにこれ!?

意味わかんないんだけど!

検査入院て言ってたのに、えっ、どういうこと?

「お前も手を握れ」

兄に言われ、もうそこからは真っ白、

泣きながら頑張れとでも言っていたのかもしれない、

それからどれくらいの時間がたったのか分からない、

電子音が途切れず一定の音を鳴らし続けた、

お父さんが亡くなった。

オレが到着してから5分くらいだっただろうか、

いや、いろんなことが起きすぎて30分くらいたっていたのだろうか

あの瞬間、時間はなかった。

そして、意味も分からなかった。

あの、おっかなくて厳しくてテレビ見ながらご飯食べると怒られて宿題できないと泣いてるとぶん殴られて、

それでもいっぱい遊んでくれて野球も教えてくれてたくさんかわいがってくれていたお父さん。

そのお父さんが目の前で亡くなっていった。

一週間ほど気持ちの整理がつかなかった。

死ぬとは思っていなかった人がわずか数分でいなくなってしまうのだから、

なぜ検査入院とウソをついて騙していたのかお母さんを恨んだ時期もあった。

後々思えば、宣告を受けたお母さんが一番辛かったと思う。

心配させまいとウソをついてまで安心させようとしたお母さんは本当に凄い。

そのお母さんを恨んで反抗したオレはアホだった、今ではとても感謝している。

そんなオレも30才を過ぎ、気付けば15年程の月日が経とうとしている。

今年結婚をし、これからお父さんになる日が来るのだろうか。

その時は、あの強くて偉大なお父さんみたいになれているだろうか?

今年の夏はお墓参りに行こう。

結婚の報告もしなきゃ、

どんなことがあっても強くたくましく生きよう!

後悔のないように!!!生きろ

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